出版社 : KADOKAWA
発売日 : 2007/10/24
文庫 : 804ページ
感想
こんにちは。月子です。
今回ご紹介させて頂く本は
中原中也さん著作の
『中原中也全詩集』です。
中原中也さんの詩には
濃密な孤独感
血を吐くような悲哀
静謐な寂寞が
漂っていて
読む者に強い印象を与えます。
胸が締め付けられ
心が揺さぶられるような
感覚に包まれます。
弟を亡くし
友達に恋人を取られ
息子を亡くし
発狂し
わずか30年という短い生涯を送った
夭折の天才……。
その壮絶で破滅的な人生を知らずとも
詩、そのものに惹きつけられるのですが
その生き様を存知して読むと
その詩は途端に力を増し
よく切れるナイフのように
読み手の心を突き刺すのです。
忘れられない詩となるのです。
まさに中原中也という詩を
読むことになるのだと思います。
開いたページから
立ち上る中也さんの世界は
とても静かで
心がしんと静まりかえります。
そして心に棘が刺さったまま
ピエロのように笑っている中也さんが
私の想像の中に立ち現れ
美しくも悲しい
孤独の果てまで
連れてゆくのでした。
“思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽車の湯気は今いづこ″
(「頑是ない歌」より)
中也さんは最初から
乗っていたのかも知れませんね
死へと向かう列車の中に……。
何故だか、そんなふうに
思えてなりません。
また、この全詩集の末巻には
中也さんと、その恋人と
奇怪な三角関係を繰り広げた
中也さんの友人、小林秀雄さんの
解説が載っています。
皮肉にも彼の解説により
いっそうこの詩集は
深みが増しています。
中原中也詩集が網羅されている、贅沢なベスト判と言える一冊です。
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月夜の晩に、ボタンが一つ
波打ち際に、落ちてゐた。それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂(たもと)に入れた。月夜の晩に、ボタンが一つ
波打ち際に、落ちてゐた。それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが月に向かってそれは抛(ほう)れず
波に向かってそれは抛(ほう)れず
僕はそれを、袂(たもと)に入れた。月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁み、心に沁みた。月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?(月夜の浜辺)
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の皮裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……(汚れつちまつた悲しみに……)
よろしければ
あなたも是非
この全詩集を
手に取って
みてくださいね。
素晴らしい
読書の時間を
お過ごしください。
おしまい。
内容紹介
昭和12年(1937)、
友人の小林秀雄に詩集
『在りし日の歌』の原稿を託し
30歳で夭折した中原中也。
喪失の悲しみに耐え
詩と人生に衝突するように
時代を駆け抜けていった
希有な詩人の魂の軌跡を
一冊に収録。
歌集『末黒野』
第一詩集『山羊の歌』
没後刊行の第二詩集『在りし日の歌』
生前発表詩篇、草稿・ノート類に
残された
未発表詩篇を全て網羅した決定版全詩集。
巻末に大岡昇平「中原中也伝――揺籃」
小林秀雄「中原中也の思ひ出」を収録。
(ソース:Amazon)
著者紹介
中原 中也(なかはら ちゅうや
1907年〈明治40年〉4月29日 – 1937年〈昭和12年〉10月22日)
日本の詩人・歌人・翻訳家。
中也は30歳の若さで死去したが、
生涯で350篇以上の詩を残した。
訳詩では『ランボオ詩集』や、
数は少ないがアンドレ・ジイドの作品など
フランス人小説家の翻訳もしている。
日本大学予科、中央大学予科などを経て
東京外国語学校(現在の東京外国語大学)
専修科仏語部修了。
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代々開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして医者になることを期待されていた。
小学校時代は学業成績もよく
神童と呼ばれたが、8歳の時、
弟が風邪により病死したことで
文学に目覚めた。
1920年4月、優秀な成績で山口県立山口中学校(現・山口県立山口高等学校)に入学。
しかし読書にふけり
2年生ではどん底まで落ちる。
このころ、中也は両親に隠れて
防長新聞の短歌会「末黒野の会」に
出席していた。
この会で知り合った
吉田緒佐夢、宇佐川紅萩と
歌集を刊行。
飲酒や喫煙を覚えた
「不良少年」となっており、
成績はさらに下降した。
1923年4月、京都の立命館中学校3年に編入、
3歳年上の女優・長谷川泰子と知り合い、
翌年から同棲する。
1925年、中学を4年で中退した中也は、
大学予科受験を理由に泰子と上京
東京住まいをはじめた。
東京帝国大学文学部仏文科1年の
小林秀雄と知り合う
11月頃、友人の富永太郎が結核で死去。
同じ頃、泰子が中也のもとを去り
小林と同棲する。
1928年5月16日、父、謙助が死去。
1930年、12月、小林と別れた泰子が
築地小劇場の演出家山川幸世の子を出産。
中也はその子に「茂樹」と名づける。
種痘を勧めたり、あせもや小さな傷を
気遣う手紙を書いたり
時には一日預かるなど可愛がった。
1931年、東京外国語学校専修科仏語部(現・東京外国語大学)に入学。
9月26日、4歳下の弟恰三(こうぞう)が肺結核で死去。
1932年、6月に初の詩集
『山羊の歌』の出版を計画。
1口4円で150口、600円集まれば
200部印刷する予定だったが、
申し込みは知人10名ほどで、
中也と親しい大岡らは
払い込んでもどうせ飲んでしまうに
決まっているとの判断だった。
母、フクからも300円送ってもらったが、
製本まで資金が足りず、
刷り上った本文と紙型を
安原喜弘が預かっている。
このころノイローゼになり、
強迫観念や幻聴があったが、
年末から年明けの帰省で回復。
1933年、3月に東京外語専修科卒業。
近所の学生にフランス語を教えて
小遣いを得ていた。
12月、『ランボオ詩集〈学校時代の歌〉』の翻訳を三笠書房より刊行。
この翻訳がはじめての商業出版である。
本が売れたことで中也は小林秀雄とともに
ランボーの代表的訳者として
名を残すことになった。
同じく12月、遠縁にあたる6歳下の
上野孝子と結婚。
1934年、10月に孝子が
長男・文也(ふみや)を出産。
11月『山羊の歌』が出版されることが決まる。
好評になり、詩壇とも交流、
原稿依頼も来るようになった。
1936年11月、2歳の文也の容態が急変、
入院させる。
中也は3日間一睡もせず看病したが、
文也は小児結核で死去。
葬儀で中也は文也の遺体を抱いて離さず、
母、フクがなんとかあきらめさせて
棺に入れた。
四十九日の間は、文也の位牌の前を離れなかった。
12月に次男・愛雅(よしまさ)が生まれたが悲しみは癒えなかった。
幻聴や幼児退行したような言動が
出始める。
1937年5月、『文學界』に
「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません」ではじまる『春日狂想』を発表。
10月4日に頭痛や電線が2つに見える
視力障害を訴えた。
歩行困難もあり
ステッキをついて歩いていた。
6日に入院。
脳腫瘍が疑われ、
その後急性脳膜炎と診断された
(今日では、結核性の脳膜炎とされている)。
15日、母、フクと、弟、思郎が駆けつけたときは既に意識は混濁していた。
明治大学で教えていた小林は
1週間休講にして病室に詰めた。
河上徹太郎は毎日東京から病院に通った。
22日午前0時10分、鎌倉養生院で永眠。
苦しむことなく安らかな死だった
(ソース: ウィキペディア)